湯河原惣湯のストーリー

万葉のころから、湯があった

湯河原の湯は、日本最古の歌集『万葉集』に詠まれています。
関東で唯一、万葉集にその名を残す温泉とされ、公園の名「万葉公園」もこの一首に由来しています。
千三百年ほど前、旅の途中で湯に浸かり、身体をゆるめ、また歩き出した人がいた。ここで過ごす時間は、そのころから地続きです。

「惣湯」の復活

中世、この土地は武士や村人の湯治場として利用されていました。
江戸時代になると「湯ヶ川原」の地名が登場し「湯河原温泉」と呼ばれるようになります。村人は河原から自然湧出する温泉の共同湯坪を「村湯」「惣湯」と呼び、地域の共同湯として大切に管理しました。
明治時代に入ると、養生の地として湯宿が次々と建てられるようになります。著名な政治家・軍人・文人墨客が多数訪れ、湯河原温泉は多くの文学作品に取り上げられます。

湯治という過ごし方

かつて温泉は、一泊で立ち寄る場所ではありませんでした。
湯治の慣わしでは、七日をひと区切りとして「一廻り」と数え、二廻り、三廻りと滞在を重ねます。朝夕に湯へ入り、あいだの時間はただ休む。歩き、食べ、眠り、また湯に入る。効能を急がず、日々のくり返しのなかで身体がゆるんでいくのを待つ。それが湯治の時間でした。

湯治場には、湯を囲む人びとの暮らしがありました。自炊の煮炊きの匂い、居合わせた者どうしの世間話、同じ湯を分け合う作法。湯は個人のものではなく、その場に集まった人たちで分かち合うものだったのです。
「惣湯」という呼び名は、そうした共有のかたちをそのまま言い表しています。「惣」は、みんなの、という意味です。

傷の湯、そして養生の地へ

またその泉質は「傷の湯」で知られ、日清・日露戦争の傷病兵の療養地となり、名湯の評判は全国に広まりました。
現在「万葉公園」の名称で知られるこの地は、明治の実業家・大倉孫兵衛の別荘があり、療養中の人々に解放され「養生園」「大倉公園」と呼ばれていました。

傷を癒やす湯であり、公園として人に開かれた場所でもある。
ここには、湯を「みんなのもの」として扱ってきた時間が幾重にも積み重なっています。

一日で、湯治する

とはいえ、七日をここで過ごせる人は多くありません。
湯河原惣湯は、湯治の時間の流れを一日のなかに畳み込むことを考えました。源泉かけ流しの湯に浸かり、季節のものを食べ、本を開き、また湯に入る。予定を詰めず、何もしない時間をあえて残す。「一日湯治」と呼んでいるのは、そういう過ごし方です。

湯上がりに本を開くのは、湯治場の人びとが湯のあいだに世間話をしていたのと、そう遠くない時間の使い方かもしれません。

これからの「惣湯」

かつて村人が地域の共有資産として守り育んできた「惣湯」。その精神と文化を受け継ぎ、地域の人々とともに、湯河原の魅力を感じられる場所に育てていきます。

湯は、誰か一人のものではありません。
訪れた方も、この土地に暮らす方も、同じ湯を分け合う。千三百年ぶんの時間の続きに、あなたの一日を重ねていただけたらと思います。

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